昭和49年6月7日 朝の御理解 ●② 大坪かよこ
御理解第72節
人間を軽うみな、軽うみたらおかげはなし。
人間尊重と、ね、それを教組は、神の氏子としての人間、そこにいよいよ人間尊重しなければならない。ま、せずにはおられないというところまで行かなければいけん。
ここにはっきりおかげはなしというふうに断言的な言葉を持って言っとられるぐらいですから、ただ、これはおかげというのは、本当の意味でのおかげということであろうと思うですね。
人間を軽う見ておっても、また、軽く扱っておっても、おかげをいうならば受けておる人も沢山あるのですから、ほんとに神の氏子としての見方ができるような、あの信心にならせて頂いて、人間を尊重視するというところにならなければ、本当のおかげは受けられないということだと思うです。おかげはなしと仰るのはそういう意味だ。まあ、いうならば、御利益は、軽うみてもおかげは頂かれるけれども、お徳は受けられないというふうにはっきり頂いてもいいわけですね。
そこでなら人間が、をなぜ尊重しなければならないかということが、分っただけでは、いけんのです。
分ったから、それをたとえばそれを尊重しておるのでは、ほんとのものじゃありません。たとえばここんところを、人間を軽うみなと、いうところを物を軽うみな、軽うみたらおかげはなしと、ね、事柄を軽うみな、軽うみたらおかげはなし、というふうにも言えるわけです。第一教えを軽うみな、教えを軽うみたらおかげはなし、そういうふうにも頂けるわけです。
ね、これはおかげを頂けないはずですね、教えを軽う見る、物を軽う見る、ね。
甘木の親先生なんかは物を御物とこう仰った。
そして御物を大事にされた。
ここでは事柄を、ね、御事柄として受けて行かなければ、神様の御働きとしての、頂き方。という頂き方になれば、おかげがあるということになります。
なるほど人だけではありません。物だけでもない、もうすべて、ね、そのへんのところが全てが、軽う見られない、おし頂かなければおられないという、信心がだから、まずもって大事だということになります。
ね、だから、おし頂く頂き方をすれば、これは、ね、もう、尊重した上にも尊重して頂くのですから、おかげはないじゃなくておかげはあるということが言えます。
●② 今日私は、心中心ということをご神前で頂いたんですけれどもね。お互いの信心が、どういうことが中心になっておるでしょうか。
おかげを頂かなきゃならんから、あらたまらにゃならん、おかげということが中心になっておるですね。あらたまらにゃん、磨かにゃん、ね、おかげが頂かれんから、改まると、そういうことになりますね。
ですから、おかげを少し頂いたり、楽になったりするともう信心がおろそかになるのは、もうそのためです。
ね、私どもが、信心がね、どこまでも心中心、そこんところが段々分って参りますと、いわゆる、神様中心ということにもなってくるですね。
氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますから、というようなところはです、ね、自分というものを中心にしたんではなくて、いうならば、神様を中心に申し上げたところに、任せられる、任せることになるのです。
いうならば人間本位、私ども本位ということじゃなくて、いわゆる神様本位の信心をすれば、神様の方が今度は、人間本位の働きを見せて下さる。
そこにこのあいよかけよ、というかね、神も助かり氏子も立ち行くということになる。
金光教のほんとの信心の、いうなら真髄に触れて行くのです。
氏子は神様のことを思い、神様は氏子のことを思う、氏子は神様のお心に添い奉ろうと一生懸命努める。神様は又、氏子の心に添うてうやりたいという働きを現わさして下さる。もうこれこそ、神も助かり氏子も立ち行く、あいよかけよの道が、そこから開けてくるというわけなんです。
それにはどうしてもね、あの、おかげ頂いたら御用でもどんどんさせてもらおうといったような、私どもは軽率な考え方をしておった時代がございましたですね。
だから、御用、もうおかげさえ頂けば、どんどん御用させてもらう、もう、私は欲得なしで御用する、てなこと立派なようですけれども、それはどこまでも自分中心です。
ね、やはり神様中心、なら、神様中心ということの前にです、いよいよ、たとえば今日の焦点であるところの、心中心の信心ということを、一つ気付かせてもらわなきゃいけません。
ね、たとえば、教えを軽うみたら、おかげはなしというふうにも頂いたら、もちろんそうですがね、教えを軽うみたらおかげはない、それでもです、おかげを頂きます、し、または頂きますから、その教えを軽う見ることになってくるです。ところがね、心を中心に致しますとね、教えを御粗末にはでけません。
ね、私今日はここんところ何か、もういろいろと教えを頂いて、はあ、それどこじゃないと、こう分る。ね、分るけれども、実行がでけない、というのはおかげが中心だからなんです。ね、心が中心でありますとです、ね、分ったらそれを行の上に表さなければ、いわゆる心が中心ですから。ね、いうならば、心が汚れておっても、乱れておっても、ね、おかげを頂けばもうそれで良いことになるのです。
けれども心が中心でありますと、乱れておるならば、それを正さなければおられないのであり、汚れておると気が付いたならば、ね、改まらなければおられんのであり、また磨かなければおられんのである。
心、心中心の信心をさして頂きますとね、信心がいよいよ、楽しゅうなってくる。有難うなってくる。
ここ辺なね、もうほんとに紙一重ですよ。ね、おかげさえ頂きゃ、たとえば御用もさせてもらえると、ね、またそれがでけるかもしれません、おかげ頂いてどんどん御用でけるかも知れません。
それではね、おかげにならない。いわゆる、今日ここであるおかげはなしと仰るおかげにならん。
ね、だから心を中心にしていかなきゃならん。
心を中心にしたらどういうことになるかと言うと、もちろん、教えを軽う見ることもでけませんし、物を軽う見ることもでけませんし、第一なら、今日ここにある、人間を軽う見ることなんかはいよいよでけません。
心を中心です。だから、おかげがありということになるのです。
昨日、善導寺の原さんがお届をされるときに、御神米に円転と、丸いものが転がって行くという、ま、いうならば、円転自在と申しましょうかね。自由自在に自分の心が、その丸いものがころころと転がっていくように、あるということがです、ね、ま、自由無碍というか、自由自在なおかげにもつながるということになるんですから、自分の心がです、中心に致しませんと、ね、そこに引っ掛かり、そこに、もうとにかく、四角にも八角にもなっとるですから、こうやったって転がらん。その角にも、そこに当たり、ここに当たりする。そこに引っ掛かり、ここに引っ掛かりするわけです。
ね、だから、その、も、丸いその心というか丸くころころと転がっていく心を、目指すということが心中心ということになるです。
ね、いわゆる自分の心はそこに引っ掛かり、ここに引っ掛かりしておるというところにです、ね、その角をとって行かなければならんという精進、ね、いうならば、清めて行かなければいかないという精進、あらためなからなければならないということ。
ね、そこから、自分の心がころころとです、どういうところんでも、自分の思い、自由自在に転がって行くことがでける、自分の心を転がしていくことがでける、ね、そういう心を目指すということが、心中心の信心ということなんです。
ね、そこにいうなら自在のおかげが、約束される。
私どもの信心を、本気で一つ見直していかにゃいけん。
ね、おかげを頂かなければならんから、朝参りもしておる。教えを頂いておかげを頂かんならんから、改まりもしなきゃならん、磨きもせんならん、これではいけんのです。
ね、おかげを頂いたり、楽になるともう改まることも、磨くこともよう致しません。おかげが中心だからです。ね、ところが心が中心でありますとです、もうそれは、もう、五体の続く限り、実を言うたら、お参りをしなければおられんのです。それがもう楽しゅうなってくるのです、有難うなってくるのです。
ね、そこにおかげが受けられる。ね、もちろん自由自在の心を目指して、心中心にね、そこんところを精進してまいりますから、ね、心を中心にしてまいりますときにです、ね、人も物も教えもいよいよ押しいただいていく心が強うなってくる、ね、それがおかげになる。それがお徳になる。ここで言うおかげとは、ね、そういうお徳というおかげということだと思うです。
ね、軽う見てはならんと教えを頂いたから、はあ、軽う見ちゃならん、人間やっぱ尊重しなければならない、ね、人を軽うみたらおかげを頂かんから、人を大事にしなければならん、主客転倒なんです。ね、おかげを頂かれんから、いわば磨こう、おかげを頂くために人を軽う見らんというようなことではいけんのです。
ね、軽う見られなくなってくる。尊重しなければおられなくなってくる。だから、おかげがあるというおかげのほうが後から付いてくるというおかげ、それをたとえば、ね、心中心でなからなければならない。心中心であるということは、ね、心が中心の信心であるということは、ね、神様を中心の信心ということにつながるのです。
ですから、神様が、いわゆる私どもの心任せのおかげをです、下さることになるのです。改まらなければ磨かなければおかげ頂かれんから、磨く、改まる、おかげを頂く、もうそこで、改まることも、磨くこともストップすることになって来て、もちろん、主客転倒しとおるからです。
同じようですけれども、大変な違いなのですから、ひとつ皆さん今日からね、あの心を中心にするというね、生き方を身に付けることを一つ心の中に思い続けて下さい。
ね、心の汚れに気が付いたら、心の乱れの気が付いたら、まず、その、汚れを取らなければおられない、乱れを正さなければおられない、それは心中心だから、そうしなければおられない、ね、そこからです、自分の心が、自由自在に、なら、ころころと有り難い方へ、有難い方へと転がしていけれる様な自分を感ずる精進ですから、感ずるのですから、ね、それが楽しゅうならんはずがない、それが有り難くならんはずがない、しかもこれはもう限りがないことですから、ね・・・途中切れ